権力闘争こそをかしけれ

09-08 作者admin

自民党本部に掲げられた総裁選をアピールする巨大幕=東京都千代田区

NHK大河ドラマ「光る君へ」を毎回見ている。吉高由里子さんが演じるヒロインまひろ(紫式部)と、柄本佑さん演じる藤原道長によるラブストーリーが、宮廷の権力闘争と同時進行していく筋立ては、切った張ったがなくとも引き付けられるものがあり、続きが見たくなる。

自ら権力闘争のプレーヤーになりたいという人は限られると思うが、権力をめぐる人間ドラマを観客として眺めるのは面白い。権力闘争はエンターテインメントにもなるが、政治を動かす本質だ。

一方で、権力闘争をウオッチするメディアの政局報道は、低俗だの皮相的だの、しばしば批判の対象になる。「政局より政策を報じよ」との指摘は常につきまとう。

同意する部分はあるが、反論したい気持ちもある。政局報道は権力の重心の移ろいを見極める作業だ。政治は人間の営みなので、権力の行方を追えば結局、人柄とか好き嫌いとか、下世話な面も含めた人間模様にフォーカスせざるを得ない。仮にロシアや中国、米国の政治権力について同じことをすれば、インテリジェンスとか分析とか、高尚な呼び名になるだろう。

政局と対(つい)をなすのは政策だ。政策はそれ単体では論理的で筋道正しくとも、あっちを立てればこっちが立たない類いだ。利害を調整し、優先順位をつけながら物事を前に進めるのが政治であり、そのためには権力が必要だ。6月に死去した文芸評論家の野口武彦氏は「政治権力のドラマとは、ひとくちでいえば《政治と権力の相互依存関係》である」としている。

権力には大義名分が必要だ。「光る君へ」では、道長のライバル藤原伊周らが、まつりごとの筋道を乱し、民草に災いをもたらす側に描かれ、道長が権力を掌握していく大義名分になっている。一昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、東国御家人のための公正で安定した幕府の確立が、血なまぐさい粛清劇を正当化する理由になっていた。

ドラマだけでなく現実も政局の季節だ。自民党総裁選に挑む候補たちは、今後もまつりごとを担い続ける正当性をどう説明するのか。立憲民主党代表選で、後輩の現職を引きずり降ろそうとするベテラン勢の大義名分は何なのか。政策論争とあわせて注目したい。

【プロフィル】千葉倫之

平成14年入社。千葉総局、秋田支局、東北総局、東京本社整理部、社会部を経て政治部。

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